業務実績:大磯教会の保存改修工事の経緯〜建替えるべき老朽建物から文化財へ

報告者:田代洋志伝統建築文化推進協議会会員
日本建築家協会(JIA) 再生部会  一級建築士


1.建物概要
 大磯教会のある大磯は東海道五十三次の一 つであり、明治の元勲たちの別荘地、日本で 初めての海水浴場の地でもある。 ここに昭和 12(1937)年、第二次大戦が 4 年後に迫るという教会には厳しい時代に阿部銀蔵大磯教会牧師により当教会は建立された。阿部牧師は桜庭駒五郎の養子であり、桜庭はクリスチャン棟梁として知られ、重要文化財に指定された建築も設計施工している。 敷地は宿場町によくある長細いもので旧東海道正面に礼拝堂を置き、その奥に中庭を挟んで牧師館が建っていた。昭和 20 年には中庭に幼稚園を建て、礼拝堂・幼稚園・牧師館という構成になったそうである。 幼稚園は好評のようで保育室が牧師館の裏までさらに拡張されていく。木造イギリス下見板貼り一部 2 階建て、延床 200 ㎡の建物であるが今回に至るまで確認申請は全く出され ていなかった。そういう時代であった。昭和 25 年以前に竣工したとはいっても、それ以降に確認申請すべき建築工事があったことは記録に明らかであるが、今まで問題視されたことはなかったのだ。
 雨漏りや外壁剥落への対応修理工事を積み重ねる中で、阪神淡路大震災の翌年の平成 8(1996)年、中堅ゼネコンの目視による耐震診断を受け、建替えを勧められている。 平成 12(2000)年には、現教会堂を除却し、新築することに意見表明の16 中 15 名賛成というほぼ全員の賛意を得ていた。 それが今では文化財として町の財産ともいうべきものなったのだ。運命とは人間にはわからないものである。

2.設計事務所巡り
 教会は西欧伝来の故か、建設事業が発生すると設計者のコンペから始まることが多い。 大磯教会のような規模ではコンペにはならなかったが、それでも複数の設計者へヒアリングをかけ教会員の合議を得て設計者を選ぶというプロセスを経ている。それぞれの記録も残され、いわば時間差のあるコンペと言えよ うか。 礼拝堂を残そうとした場合、相談にのった設計者のほとんどは基準法の条件により「集会室との一体化はできず、別棟として保存する以外はない」という判断であった。あるいは全てを新築する案である。しかしながら、様々な告示等が出されてい る現在、複雑ではあるが、相当な部分を保存しつつ、現行法規へ適応させることが可能に なってきている。 これら告示は古い木造文化財の保存というより、既存建築の改修可能性を高めるためのもので、普通の住宅が不良状態で凍結されてしまうことを回避するためである。 また、森林資源を活用し、木造建造物を建 て続けようという産業政策が木造の可能性を高めており、これが結果として保存への追い風になっている。 ところが設計者一般にとっては新築物件の経験が圧倒的に多く、既存建築の改修手法は常識にはなっていない。加えて文化財の価値を理解しての改修となるとさらに稀ではないだろうか。改修保存の手法が解りやすく広まることが望まれるが、実際は個別的な条件が多く一般化は難しいのが現状であろう。 そもそも大磯教会は保存するための設計者を探していた訳でもなかった。率直に言えば設計料も含めて工事予算を抑えてくれる設計者を探していたのだ。よくあることだが努めて教会を保存していた訳ではなく、新築する予算がないため残っていたのだ。雨漏り等の補修のいよいよ限界に達したが故の新築設計者探しなのであった。

3.建築史家見学会で歴史的価値を認識
 珍しいことに新築計画が決まる前に大磯教会は近隣の方々にお別れ見学会のオープンチ ャーチを行った。お別れ見学会が開かれる時は、通常着工寸前であることが多い。このよ うな時点では保存へと進路を切り替えることはまず不可能である。この見学会では大磯教会の幼稚園卒業者や近隣の方々から『愛着がある、残して!』という希望が多かったそうだ。私も建築好事家の仲間からオープンチャーチの知らせを聞き参加し、見納めかと諦めたが、残して!との感想だけは残した。 その一年程前に新築を進めるために境界確定をした時も関係者から残して欲しいという希望があったそうだ。 さらに偶然は重なり、建築学会関東支部の シンポジウムに教会の方々が参加された。建築学会のシンポジウムに建築関係者ではない方の参加は大変珍しいことであった。 これが縁で、関東支部の建築史の先生方が大磯教会を見学し、歴史的文化財の価値有りと評価されたのであった。 これが決定的であった。 しかし保存の方向へ動いたと行っても実際に保存して、既存教会における不安と不便を解消できるのかどうかが次なる問題となった。 歴史的価値は大切であるが、キリスト者にとって何より大事な礼拝を守るという本来の目的を失う訳にはいかないからだ。 礼拝にとり教会堂は本質ではない。青空の下で礼拝を行うことも良しとされている。ところが一方、教会堂は『神の家』、キリスト者が集まる場所として尊ばれてもいる。先達が 成した教会堂建立という偉業を顕彰する意味 でも教会堂の継承が大切なはずだ。現行法規 の中で、かつ極めて限られた工事予算の中で 保存と機能向上が可能かどうかが問われた。保存と新築を比べた場合、施主にとっては 床面積の増加や、特段の機能が付加されない 保存改修という事に新築以上の事業費がかか ることは理解しにくいものだ。見識ある一人 の施主ではなく、委員会制では尚更で、様々な意見噴出となり、まとまるものもまとまり難い状況となる。このような会議では新築より保存の方が工事費が高いと却下されやすい。 たとえ見識ある方々がいても意見は平均化さ れるので、新築の予算以下でなければ理解されないのは普通の判断だろう。 既存建築の問題を明らかにし、歴史的価値と齟齬のない形で問題を解決し、しかも経済的な予算で達成しなければならない。 具体的には集会室、調理室、トイレの充実が大きな要望であった。特にトイレは位置が限られたため、機能更新を図ると建物正面を復元することが出来ない。しかしそれも歴史の積み重ね故と理解した。初代と改変の歴史を意匠的に目立たないよう継承することにした。凍結的に保存するのではなく、使い続けるために過去の歴史を紐解き、現代の機能を加え継承していくことも大切な事だ。 そのような保存部分に加え、新築部分の集会室は保存礼拝堂と違和感がないよう工夫し つつ、現代的な構造によって現代の集会室として計画した。保存する礼拝堂と共に違和感なく、かつ末永く使えるように重層していく歴史を表現した。また、意匠のモチーフは礼拝堂と共通して基督教会独自の暗示的なデザインとした。 理屈はともかくこの新築部分が礼拝堂と相俟って歴史を重ねていけるかが本当の評価であろう。

4.本質を見失わない中でのルールの運用

 さて、不思議なことに建物は全く同じものが二つとない。大量生産を目指した、団地やマンションでも同じものは一つとしてないのだ。周辺環境などの取り巻く状況も様々なため、法規の適用も自動的にコンピューターで判断できるものではない。行政担当者、建築主事など人間が介在することが必要である。 全く同じ建物設計ならば設計も行政協議もどれほど上手にできようか。 これは同じ人体が二つとないことにも似て いる。二つとない人体に二つとない病気にな るから、検査は機械でも常に医者の診断が最終的には必要なのだ。もっとも風邪程度は自分で判断できるのかとも思うが、風邪で死ぬ人も大勢とのことだ。 また二つとない事件を共通ルールである法令に従って裁く裁判も同じ事だろう。裁判も自動化は不可能ではないか。二つとない人生が問題となるからだ。なにより機械からの判決では人間が納得出来ない。 それら個別解が大切な分野では、判例や症例を積重ねる毎に判決や診断が精緻化していくのであろうが、精緻になるあまり、『手術は成功したが、患者は死んだ』というような事態にならないように心がけたい。 法の主旨から外れること無く様々な条件に応じて解釈していくことが肝要ではないだろ うか。ドッグイヤーとも言われる変化の激しい時代にあって、法律自体を随時変えて、時代に即応することは無理であろうし、時代に即応することが法律本来の役目でもないと思う。 法律はいわばロングテールのヘッドでありその時代の多くが理解できる常識であるべきだ。個別具体の裁判はテールそのものであり極めて稀な事実なのだ。そう考えると法律の主旨、時代状況、いわばツァイトガイスト(こ の言葉は既に死語で、時代精神に相応しくな い言葉になっているのが皮肉だ)、公共的利益に対する感覚を大切にするべきなのだろう。 建築の保存というプロジェクトは当該文化財としての個別具体の価値、魅力と、それに相反しがちな現代に要請される性能とのバランスを探るという一期一会のプロジェクトではないかと思う。 しかし、社会的存在たる建築は法制度や産業システムの内に保存できるという選択肢があるのが本当ではないか。それは社会の要請 であるべきだ。しかし、日本では未だそのような歴史的地区や建造物の保存は特殊な条件が必要な建築になっている。普通の施主、設 計者、工務店にとっては難易度の高い特殊な事例なのだ。

5.既存不適格や違法部分と行政事前相談
 建築基準法は建築の底上げのための法律で 最低限のルールとの位置づけである以上、こ れを下回ることはできない。しかし、法が想定していない事態も多い。現今の建築基準法とは別の観点からの安全基準があってもいいはずだ。 特に今の建築基準法は、昭和 25(1950)年という戦後間もない頃に国民の最低限の生活を保証すべく、設計施工の工務店にも質の高い住宅を早急に多数建設させようという意図が強かった。それはにわか大工達でも安全 安心な建築が作れるような一般庶民の住宅の 底上げであった(速水清孝、『建築家と建築士』、 東京大学出版会、2011)。 設計と施工の分離による西洋的設計者の専 4 門性や建築家の倫理、まして歴史的建造物の 保存などは付けたりであったといえる。今でもこの骨格は改められていない。 たとえ建築確認の関係者が歴史的建造物の保存に関心があったとしても、この法律に従わざるをえないのだから、保存しようと思えば彼ら自身板挟みとなり、困難に陥ることになる。法律の中で安全側をとれば保存が危険側であることが多いからだ。 保存は無難な前例主義の代表である官僚の彼ら自身がリスクを覚悟して、との事になる。今回の場合、行政はかなりの理解を示してくれたことは誠に幸運であった。行政は普通、 一般的な判断に則り、個別的な価値を軽んじて、保存は許されないと判断しがちな行政に あって、素直に感謝する次第だ。 官僚がリスクを覚悟出来る状況とはどのような事態なのだろうか。それは恐らく普通のことではなく、幸運な出会いとしか言えないだろう。 しかし設計者としては幸運に頼ること無く、 歴史的価値を損ねないという制限の中で、出来うる限りの安全と安心への万全な対応を行っている。それが幸運を呼びこんだのだと思っている。 今回の場合規模が小さく、構造計算不要の建物であったが、それでも一般より高度な構造計算を行い、耐震性能も公共建築並として いる。また避難ルートも法で要求される以上用意した。デザインは大幅に制限されるが、 内装も全て不燃以上として設計している。それは法が要求するというより、末永く残って欲しいための設計とえよう。法的には許され ても大地震で倒壊してよい私的な建物ではないからだ。地域の歴史と誇りと伝えてきた貴重な建物なのだ。予算的に許されれば放火に対しての備えもしたいところであった。 さて、そんな保存に冷淡な建築基準法でも 内装材と外装材については、壁体内の工夫によって、半世紀以上昔の木造であっても耐震耐火性能を現行法規に合わせることが、おおよそ可能になってきた。 現行法規が基本的に新築を対象としている とはいっても、ストック活用が現行の政策に上って以来、既存建築への対応が付加されて きたため、現今では準防火地域において延焼のおそれがある部分の開口部(窓・玄関扉) 以外は対応可能な各種告示が豊富になってきた。しかし、その開口部・窓が建物の性格を大きく決めることが往々にしてある。これをどう適法化するかが設計者の考え方、技量次第で、大きく結果が別れるところだろう。

6.まとめ

 今回は教会員だけでなく、行政、地域とも に理解を得られた幸福な事例であった。 除却されようという時期もあった。 新築が覆されたのは、建築学会や近隣の 方々のいわば部外者の目があったためだ。そ してそれを専門的に解決できる設計者に巡り 会ったことであった。 偶然に関わった建築好事家の思いや、建築 史学者の見識が教会関係者の判断に大きな影 響を与えたのである。 恐らく教会が歴史を経て纏った魅力を教会 員自身らもそこはかとなく感じていたのだろ う。部外者はその価値を明らかにしただけだ。 しかしそれにより、教会員自身も古くなった 恥ずかしい建物から、しっかりと保存すべき 価値あるものと理解し、今後も使い続け、自 らの建物に誇りを持つようになったのだ。 古い教会堂を護り続けることは地域の価値 や、教会・教会員の存在意義を高めこそすれ 決して下げるものではないのだ。

★大磯教会ビフォー&アフター

日本基督教団大磯教会の文化的価値

 江戸時代東海道の宿駅であった大磯宿が、明治維新後近代のまちとして蘇ったのは、 明治18年海水浴場が開設され、明治20年には東海道線が開通したことによる。多くの政財界の人たちが保養の別荘を建てるようになり、大磯は一躍湘南海岸のステータスリゾー ト・タウンとして戦前まで賑わうことになった。明治19年(1886)I.H.コレル師ら数名の米国の宣教師が大磯の国府村に伝道に訪れたのはその頃のことで、地元の村民、近藤市太郎(1856~1936)ら18名が受洗し、日本美以(みい:メソジスト)国府教会を創立した。

 近藤は国府村の初代村長で神官、近藤禄郎の長男として生まれ、漢籍を学んで明治6年 国府村の思文館小学校創設にあたり教員となり、その後、生沢学校と改称されて27才でその校長を拝命、31歳の時に国府教会を創立した。明治25年には国府村村長、同年31年には中郡会議員に当選し、第1回議長に就任、明治36年には県会議員、第21代県会議長 に就任した。大磯教会創立には献身的な貢献をされ、昭和11年に逝去した。(大磯教会編集(2010)『大磯教会の歩み』創立110周年記念誌、11ー12頁)  大磯教会は日本美以国府教会大磯講義所として明治33年(1900)に創立され た※1。その届人の二宮熊太郎(1865~?)は近藤と共に受洗した一人で、国府教会、大磯教会の信徒代表を長らく務めた。  二宮は中郡国府村に生まれ、明治27(1894)年御料局静岡支庁大磯出張所に勤務し、1908年帝室林野管理局技手として大磯出張所に勤務した官吏であった。 長く教会の役員を務め、会計を担当していた。(大磯教会編集(2010)『大磯教会の歩み』創立110周年記念誌、12ー13頁) 現在の大磯教会建設の計画は昭和8年に始まり、翌年茶屋町の現在地に土地を購入し、 昭和11年(1936)定礎式、昭和12年2月11日に献堂式※2が行われた。その建設委員長は 近藤で、会計を二宮が務めた。この二人の献身的な伝道活動が今日の大磯教会の礎となり、大磯の別荘地に訪れてきた多くの人々にも受け継がれることになった  大正12年の関東大震災はそれまであった多くの町家や別荘に壊滅的な被害を与え、多くの建物が建て替えられた。茶屋町は大磯宿の南端にあり、教会堂が建てられることになった土地はそれまで氷屋があったと言われる※3。教会の裏手には当時の氷屋の室の建物跡である煉瓦片が散在していた。  
 創建当初から現在まで敷地は変わっていない。宿場町によくある街道に面し間口が狭く奥に細長い敷地で、旧東海道に接して表から順番に、前庭、礼拝堂、中庭、牧師館、奥庭という構成で建てられ、奥庭は細街路(2項道路)に接していた。昭和20年(1945) 北の礼拝堂と南の牧師館の間にあった中庭を幼稚園に充てて増築し、礼拝堂と牧師館を繋いで一体として連なる工事が最も大きい工事であった※4。続いて昭和25年(1950)牧 師館の更に南側の奥庭に園児のためにサンルームを増築した※4。昭和47(1972)年には牧師館に風呂場、玄関、台所を設けた※5。それ以外は修理程度となっている。概要は以下の通りである。

  規模: (当初) 一階93.53㎡ 二階38.07㎡ 計131.60㎡
  (今回保存改修後) 一階136.76㎡ 二階21.52㎡ 計158.28㎡
  構造: 無筋コンクリート基礎、木造。玄関部総2階建て、礼拝堂部1階。
  竣工: 昭和12(1937)年、設計・施工:大向忠太郎(東京経堂教会会員)※6

 

 東海道に面した玄関部正面は総2階建、急勾配の切妻屋根を頂いた中央部を道路側へ突 出させ、1階を玄関ポーチとしている。創建時は完全な左右対称の正面であったが、後に 1階西側に手洗い所を北側へ増設し尖頭アーチの窓枠は廃された。当初は中央部の二階に ガラスを嵌められた飾り窓があったが中央部外壁の剥落事故があり廃された。 尖頭アーチやステンドグラス、正面中央の急勾配の切妻などゴシック風を基調に外観はまとめられている。さらに一階出角にはバットレス風に角を突出 させ、その二階出角にはコーナーストーン風の飾りをつけている形態はゴシック的であるが、いずれも下見板の重ね張りをしてその形状を成しているのはユニークである。一方、正面破風にはロンバル ディアンベルト風の飾りとジグザグ形状の軒下飾りはロマネスク的である。礼拝堂側面の上げ下げ窓は現在では製造されていない粒の大きいダイアカットの黄色の色硝子で、色もややくすんでおり今はない色合いである。この窓上部は尖頭アーチではなく、三角形の直線的な形状になっている。窓の桟も独特で、梯子形状をしており、 このモチーフは雲間から漏れる光束を天と地を繋ぐ梯子と見立て、キリスト教ではヤコブの梯子と言われている。
 正面二階のいわゆるクワイヤ(聖歌隊席)の位置が和室畳敷き、漆喰仕上げの土壁の 部屋である。この和室から礼拝堂が望め、礼拝に参加できるようになっている。今では 全国的に希少な形式となってしまった。  
 礼拝堂は二階まで達する一層。三間五間のやや奥に長い単廊形式である。東西外壁側 にハンマービーム風の飾りを天井に設けている。構造的にはハンマービームではなく方伺 的に小屋裏のトラスを支えており整理されていない構造である。したがって意匠的な工夫 といえよう。礼拝堂正面には講壇(祭壇、アプス)を設けられているが小さな講堂に対し て大変立派で、様式的に最も手が込んだコリント風の柱頭をもつ半円柱とその上部を尖塔アーチが結んでおり、この教会のゴシック的な意匠の焦点といえよう。
 後述するが由来のある意匠である。祭壇の両脇には扉があり、この扉にもヤコブの梯子が桟としてデザインされている。かつてはその扉奥に幼稚園があった。現在は集会室として使われている。さらにその奥には牧師館があり二階に寝室、一階は幼稚園や教会事務室として使用されることが多かったようである。今回の保存改修工事では集会室と牧師館の一部は建築基準法制定後の建築で申請記録がないため、残念ながら除却し新築 した。この二階部分は方形の平面をしており、ブリ漁の望楼としてを海を見晴かすための大磯特有の建築形式であったので、将来の復元が望まれる。
 近藤や二宮を信徒として、現大磯教会建設時に牧師をしていたのは阿部銀蔵牧師であった。昭和6年(1931)から昭和12年(1937)というまさに現礼拝堂の創建時代の牧師である※7。阿部銀蔵牧師(1900?~1974?)は大正二年(1913)の大凶作で孤児となり、桜庭駒五郎(1871~1955)の養子となっている。桜庭は東北で有名なクリスチャ ン棟梁であった。桜庭は東洋英和学院を中退し、大倉土木の下で明治天皇の伏見桃山御陵の礫葺施工の責任者ともなっている(以上、間山洋八(1985)『基督教棟梁桜庭駒五郎の軌跡』大観堂書店、12頁)。独立してからは弘前学院外人宣教師館(国重文)、日本基督教団 弘前教会(青森県重文)、旧津山基督教図書館(国登録、岡山)、岡山備前の香登教会 などで知られている(以上、間山洋八(1985)『基督教棟梁桜庭駒五郎の軌跡』大観堂書店、7-8 頁)。  
  その弘前教会は本多庸一を開設者としており、彼の指導を仰ぎ桜庭はクリスチャンと なっている。本多は明治時代に新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造と並ぶキリスト教主義の教育者として著名であった。大磯教会には本多庸一の直筆の書が保存されていることも 貴重である。  
  阿部が大磯教会建立の際には、養父の桜庭より桜庭自作の旧津山基督教図書館、香登教会の見学を阿部は勧められている※8。そのため大磯教会の構成は弘前や香登教会と同様の正面入口の二階に和室をもち礼拝堂を見下ろす形になっている。 
  礼拝堂の天井は雨漏り等あり当初の天井の下にさらに天井を重ねる改修がされていた。 天井を剥がすと当初の天井が現れ、格天井風となっていたことが今回の修理により判明 し、これを不燃材料で再現した。刳形も厚さを増し小さい礼拝堂であるが格式を高めて いる。さらに下見板仕上げのゴシックを基調とするポインテッドアーチや、特徴的な外壁出隅にバットレス風の飾りを下見板にて作ることや講壇の両脇に柱を建てたアプス状になっていることも香登教会や重文の弘前教会と共通であり、桜庭駒五郎の影響は極め て大きいといえよう。これらの特徴は昭和の建築であるにもかかわらず明治期の擬洋風を想起させるもので、昭和12年で既に同時代的なものではなくユニークといえる。施主と設計者の創意工夫といってよいだろう。小川三知のステンドグラスでも有名な安藤記念教会(港区、国登録)の附属幼稚園に勤めていた保母のデザインによるステンドグラ スが入り口上部にある。 

 以上のことから、戦災をくぐり抜けオリジナルを留めていること、類似の例もないこ と、そのデザインの由来からもよく日本における基督教会の伝播の歴史を意匠からも伝えていることから大磯町の貴重な文化財と言える。  また、教会正面の塀はコンクリート洗い出しによるもので、創建時のものが残っている※9。昭和初期まで多く見られた塀であるが、大磯にはもう見当たらず昭和初期をよく 伝える貴重な遺構となっている。塀は柱梁を基本にロマネスク的な石積みのような厚さを持ち、その柱梁中にキーストーンの刳形のあるアーチを備え、ゴシック風の教会堂に相応しい門塀となっている。しかしアーチは曖昧な曲率であり、アーチが柱梁の中に収 められていることも含めて意匠は本体と同様に擬洋風というのが最も相応しい。門柱頂部にはキリスト教義の三位一体をモチーフにした三条の溝が彫られている。類似例もな く、礼拝堂と共に近隣にも大切にされ、大磯町の財産と言える。
(大磯町文化財専門委員 稲葉 和也、日本建築学会関東支部歴史意匠専門研究委員 田代 洋志)

※1)大磯教会編集(1985)『大磯教会の歩み(Ⅰ)』創立85周年記念誌、97頁
※2)大磯教会編集(2010)『大磯教会の歩み』創立110周年記念誌、22頁
※3)―――(2010)、25頁
※4)―――(2010)、143頁
※5)大磯教会編集(1985)『大磯教会の歩み(Ⅰ)』創立85周年記念誌、33頁
※6)―――(1985)、10頁、設計・施工者、および建築年代の根拠はここの記述による。
        設計書や棟札等はなかった。

※7)―――(2010)、23頁
※8)間山洋八(1985)『基督教棟梁桜庭駒五郎の軌跡』大観堂書店、41頁
※9)竣工時の写真に当該門塀も写っている。