調査実績:福島県内に残る旧修験者活動遺構調査に関する覚書(1)

報告者:狩野勝重伝統建築文化推進協議会会員
福島県文化財保存審議委員 工博


福島県内には、古く徳一の活動が山岳仏教の展�開として知られるところであり、その代表的な例が、近年磐梯町に再建なった恵日寺であるが、その徳一の活動の裏に見え隠れす る民間信仰の自治的組織はあまり知られていない。しかし、嘗ての会津四郡の成立から近世に至るまでの一千年以上の間に、仏都と称するにふさわしい年輪を刻んできたことは、余り知られていない。特に天領会津と呼ぶにふさわしい会津地域の 地域維持形態は、近世修験道的自治組織(社会体制維持的自治組織で、体制と積極的な対立的関係にはない)の原点とも受け止めることができる。 只見川ぞいの集落では、平成16年の調査で二点の陰陽道に関する写本、龍蔵院「陰陽雑書抜書」(永禄66年11556633)および吉祥院「簠簋傳ほきでん」( 元亀三年1572)が発見されたことで、俄に修験道と庶民生活の拘わりが注目されるようになってきている。明治政府の修験道廃止令に伴って一時神道や密教系の僧侶として包摂された結果、どちらの院も廃院となっているが、神道系では運営に困難をきたしたことから、「復職願い」が出された例も決して少なくないとの報告がなされているので、依然として実質的な里修験は存続していたものと推測されている。修験道の実態を簡単にイメージし得る者達は、最も有名な者に勧進帳の武蔵坊弁慶かおり、現在では里修験の実行者である多くの山伏達が居る。

建築に携わる筆者が修験道に関心を抱いたのは、「徳一+空海」の役割分担であり、法用寺から恵日寺に繋がる徳一配下と恵隆寺のような地元定着の在来勢力との対立を制した、磐梯山磐梯神社を中心とする山岳信仰の存在からであった。その切っ掛けとなったのは、「惣堂」註1)という概念である。


註1)藤木久志『中世民衆の世界村の生活と掟』岩波新書22001100..005


簡単に言うと「惣堂」とは鎌倉時代から江戸時代までを通じて、荘園支配制度を引き継ぐ一般民衆の結合組織の中枢に位置付けられるものであり、中央政府の警察権の及ばぬ世界でもある。すなわち、荘園自体が存続していくための責任を負わされる反面、荘園を管理する民衆共同体に与えられた権利でもあり、寺院勢力の下での仏堂ではないという特殊性が認められ、民衆の土地離れを防ぐために時の領主は一定の援助をすることがしきたりになっていた体制外の掟であった。この掟の成立の裏には修験の世界の組織的結束が働いていたのではないかと推測している。

たとえば、中越地方の修験道に寄与している山は26峯と言われているが、東北地方では出羽三山、鳥海山、飯豊山、磐梯山、伊達の霊山、本宮の岩角山、さらには日光山もその対象として含まれており、山伏達の活動領域は想像を超えている。その上、鎌倉時代以降、熊度詣でを司る院の役割を安堵され、江戸時代になっても小先役としての地位を堅持された神人組織註2)の存在も知られている。


註2)「白河市史」p694藤田定興


そうした中で、筆者が注目したのが、越後から阿賀川を遡上して会津地方に入ってくる交易流通経路である。もともと会津という地名は、中通を北上してくる坂の上田村麻呂の勢力と日本海にそって北上してくる朝廷勢力が落ち合う場所として位置付けられ、その大和朝廷が直接支配体制下に置いた土地である「会う」「津港」という意味で名付けられたと伝えられる。中世では葦名氏統治領、その後、伊達氏との抗争、上杉氏の支配、江戸時代に入って保科氏の統治下に入るが、いずれの時代にあっても、陸奥、奥羽二国の要となる存在であったことは間違いのない処である。

新潟県蒲原郡は阿賀川に沿った三川の岩津平等寺薬師堂には天正六年1578の「 御 舘 の 乱 」に乗じて会津葦名氏が越後に攻め入ったが、戦い敗れ敗走中の葦名家臣が立て籠もった時の落書がよく知られている。平等寺薬師堂は、永正十四年1517に僧永源の肝心で再興された禅宗様仏堂である。この仏堂の落書が伝える内容で重要視されるのが、たとえ戦の最中でも、いずれの側からも薬師の霊場として警察権行使を拒否できた点にある。その中に「前波木工(会津黒川の工匠)の墨書」があり「出羽よりかいり申候刻これを書く」、という一文がある。この当時、町や村における余所者の止宿は禁止されていた筈であるが、前波木工はこの堂宇に止宿している事実を伝えるだけでなく、会津と出羽の間に頻繁な往来があったことをも想起させる。こうした「惣堂」的性格の堂宇は各町村に建てられていたものと想定される中で、この度の東北地方太平洋沖地震の被災調査を進める段階で、未だ数は少ないものの、その「惣堂」的性格と修験道の霊場がオーバーラップした行堂と推測される施設が確認されつつある。寒河江の本山慈恩寺もその一例であって、古くは天台・真言兼学の寺であったが、天文年間に葉山との関係を清算するまでは、葉山修験の別当寺の中心的存在でもあった。

東北地方南部における行堂的施設

冒頭に挙げた只見地区の龍蔵院および吉祥院は、もともと個人の修行研鑽に対する資格であって、それが継続的寺院資格ではない、すなわち一代限りのものであったことは言を俟たないが、その院の存在は在家修行を前提とした施設である限り一般民家そのものであった。その民家の建築形態については、未だ具体的調査には及んでいないが、龍蔵院、吉祥院ともに行堂的室空間を具備していたものと想定している。

筆者が福島県内の被災調査の中にあって、修験道施設として検討に及んでいる施設は四例ほどである。具体的内容は順次報告することにして、全体を概観してみることにする。

まず第一番に紹介させて戴くのが、古の会津四郡に分布する堂宇の中から、特に修験道という特殊な修行場として、その建築形態からも歴史的解明を望まれるのが、会津美里町の「左下り観音堂」である。

懸崖造りの堂宇は、国の重要文化財(史跡)である向羽黒山城と対峙するかのように2kmほど南の崖地中腹にひっそりと佇んでいる町指定の建造物である。外周部の改修が相当程度江戸時代の中期以降に行われた模様で、一見した段階ではその重要性に気付き難い状況であるが、調査分析が進むにつれ、その原型が鎌倉時代にまで遡り得ることが判明してきた。堂宇は三層からなり、現在の記録から最終的修理時期は、二層目の柱脚に遺された墨書「安永七年閏七月二日沼木又吉」および絵様繰形から安永七年11777788頃のことと想定される。この観音堂は会津三十三観音第二十一番札所に位置づけられているが、現在の正面に築かれた石垣は算木積み(慶長十年11660055頃から以降の成立)、西国三十三札所巡りのため藩内の資金が大量に流出することを避けるために保科正之が寛永二十年11664433に制定した会津札所めぐりに合わせて正面を北向き左側に移したときのものと推測され、本来は東正面の堂宇であったと思われる。このように考えたとき、本観音堂には幾つかの疑問が残る。

  1. 写真に印を付した送り出し貫が何を意味しているのか。
  2. 二層目東面だけが板壁とされている意味は、そこが修行僧の修行の場であったということなのか。
  3. 一層目は何故床板が張られているのか。何故壁がないのか。一層目への階段は敷設されていない。
  4. 当初平面は方三間堂で厨子の附設はなかったものと推測されるにも拘らず、何故に厨子が附設されたのか。
  5. 堂内における内陣・外陣の区別は何のために、何時付けられたのか。

疑問はさらに増える訳であるが、ともかくも、東向き堂の姿を想定すると、この堂宇には登り口がないことになる。特に頭貫・台輪より上の斗栱間の寸法や絵様繰形を考慮した結果は、本堂宇の計画が室町時代を降ることはあり得ないものと推測される。否、計画そのものは鎌倉時代前期にまで遡り得る可能性を秘めている。おそらく、修験道的在家修行者による地域密着型自治組織の代表的行堂であったことであろう。

詳細は、後のここに関するレポートに譲ることとして、このような建造物が、未だ町の文化財指定であるというだけで、東北地方太平洋沖地震で大きく被災している状況を放置しておいて良いものではない。ヘリテージという謳い文句を掲げる前に、地域社会の存続を導いてきたであろうことを思い起こす時に、建築に携わるものの対応は、おのずから明らかになってくるものであろう。伝統建築文化推進協議会の一員として、是非ともこのような建造物の存続に力添えを願いたいものである。

西白河郡にある旧修験道小先役を繋ぐ在家修行者住宅

建築的評価に拘わる調査を依頼された西白河郡の旧書院造り住宅は、基本的に家族の生活空間である主屋棟と検見役人接待用の書院棟から構成されている。すなわち、中央玄関口から東が主屋棟であり、中央玄関寄り西側が四つ間取り書院棟を構成。付書院を有し、南面は縁側を挟んで池塘が鑑賞できる。柱・長押等は杉の面皮付き磨き丸太、精緻な長欄間や菱欄間、床の間には清楼棚が設けられているが、その清楼棚の持ち送り絵様繰形からすると幕末に近いものと推測される。

また、書院北東の床の間上部に架けられていた彫り物板は何れかの欄間に嵌められていたものと推測されるが、棚倉都々古別神社との関連性を想起させる優れた龍玉の彫刻である。砕ける波の表現は八槻家住宅の欄間よりも活き活きとしている。

なお、この書院西面の吊棚戸襖に描かれた山水画は、この書院の建設年代を特定する有力な手掛かりとなる可能性も高いが、残念ながら落款に見られる石川緑雨の事については山形出身とも東京出身とも言われ、詳細は明らかにされていない。おそらく緑雨の活躍したのは明治時代に入ってからの事と推測されるので、この書院が江戸時代中期に比定することは難しかろう。

東側主屋について

一方、中央玄関口から東の主屋については、少々検討が必要であるものの、書院棟よりは余程建築年代が遡るものであろうと推測される。書院棟とは繋ぎとなる小空間を有し、主屋小屋裏の中引きはこの空間で終了している。さらに、主屋には、神棚ならびに厨子が造りつけられており、槍掛けや杖掛けも用意されて、行者の屋敷を強く意識させるものである。

この点においても、棚倉八槻家神官住宅を連想させるが、この地域では棚倉藩の絵師たちとの交流が多く、近くの旧家に遺る欄■(判別不能)の絵などもその一例である。丹下集落には八槻神社をも勧誘していることも、修験の世界との関連を思わせる。

以上の事から推測するに、筆者が調査した住宅は、江戸時代末頃、既存の主屋である家人の座敷(藁座敷)の西奥に検見役人接待用の上段の間(二棟の境に段差が設けられている)が増設されたものと考えられる。いまは亡き古老の話によると、書院棟は「村の威信をかけて村人総出で普請され、用材は三年程度、前を流れる川に晒しておいた」と伝えているが、それは明治時代に入ってからの事とも受け止めることができた。このことも、書院棟が江戸時代末期以降の建設とする推定の傍証と言えよう。


今回の調査における新たな知見としては、広く西白河郡地域に修験の世界が定着しており、それは、白河領内における社会的機構を写した状況であり、そのことを知覚しうる建築空間が遺ることに、大きな建築史的価値を見出すものである。この庶民の生活を伝える小さな一空間が、行者という神人組織を通じた中世的自治に始まる社会構成要素を通じて棚倉藩の神官住宅の主屋棟の存在、惹いては会津地域の行堂遺構と繋がる絆を形成している情況を推測させるに充分な一要素を認識させるところに、大きな建築的意義が認められる。

旧修験道小先役を繋ぐ在家修行者住宅の取扱いについての提言

西白河郡の旧書院造り住宅に続く本屋一棟の評価と取扱いについて、筆者は次のように提言するものである。

  1. 主屋棟は、江戸時代の社会的自治組織である神人の世界の先端部分を伝える建築空間要素を現在に伝えるものとして重要性が認められる。その範囲は、白河藩統治下における神人組織の拡がりを意識させる。
  2. 書院棟については、江戸時代末期と推定されるが、地元庄屋屋敷としての重要性とともに、主屋棟との拘わりにおける地元住民の意識の表れとして尊重したい建築物である。
  3. 建築技術的側面から見れば、隅木、風切破風等の扱いに地域性を見ることができる。
  4. 上記1、2のような理由において、現地における保存を企図する場合は、隣接する森家との連携を考えた上での半解体修復保存が有効であろうが、敷地利用の上で借地 とするか買収が必要になる。
  5. 解体移築保存の場合は、丁寧に扱うことで、主屋棟と書院棟の関係、あるいは墨書などの詳細調査で、それぞれの棟の建築年代が確認できる可能性を秘めている。
  6. 5の場合には、できる限り社会教育、地域振興的立場からの総合計画が求められるが、総合教育的見地から町の迎賓的利用と共に、地域資料発掘解明という作業場の共有、大工・左官等の技術伝承実習館などの機能と連携できることが望ましい。
  7. いずれの場合であっても、実測調査図面、保存修復、移築、周辺関係文献調査等々は重要なものであることから、その費用などの検討は欠かせない。

旧修験道小先役を繋ぐ在家修行者住宅の予想復元図

以上のように、調査所見に筆者の提言を加えて、「伝統建築文化推進協議会」に相談の上、文化庁が進めている文化財ドクター診断の対象として至急対応していただくように依頼したところである。