調査実績:福島県内に残る旧修験者活動遺構調査に関する覚書(2)

報告者:狩野勝重伝統建築文化推進協議会会員
福島県文化財保存審議委員 工博


「福島県内に残る旧修験者活動遺構調査に関する覚書(1)」において、東北地方南部における行堂的施設としての具体例「左下り観音堂」(会津美里町指定文化財)の存在を示唆し、筆者が初期調査を行った「西白河郡にある旧修験道小先役を繋ぐ在家修行者住宅」の調査報告を公開させて戴いたが、今回は「左下り観音堂」の具体的な調査内容を報告させて戴くこととする。

左下り観音堂の調査概要

筆者が会津美里町から依頼を受けて当該建築物の調査を行ったのは平成22年11月5日(金)の事であった。建築規模は方三間回廊付(方五間)三層懸崖造観音堂一宇であるが、一層目は床板が貼られているだけで吹き放し、二層目は板貼りの上一部壁を有し、三層目は中央部に方三軒の建屋を置く。

筆者実測による

平成3年に屋根の銅板葺き替えが行われた当時の小屋組みを星藤男氏が写真に収めており、その構造の一部を確認することができる。この小屋組みが観音堂建築当初の形式を遺すか否かについては明らかにされないものの、方三軒の中央部建屋と周囲の回廊とは別の構成であることが推測可能である。

また、現在の正面に築かれた石垣の算木積みが慶長十年1605頃から以降の成立であることを考慮すると、やはり堂を巡る回廊部分は会津三十三観音堂巡り制定以降の敷設と考えざるを得ない。三層目の観音堂本体の絵様繰形と回廊部分の絵様繰形を比較してみても、その建築年代の差異は明らかである。

観音堂本体の絵様繰形・回廊周りの絵様繰形

柳津奥之院弁天堂木鼻・常福院薬師堂木鼻・成法寺観音堂木鼻

観音堂本体絵様繰形は、同じ会津美里町内にある常福音薬師堂は建久八年(1197)に地域の豪族田子十兵衛道宥による建立と伝えられるものであり、成法寺観音堂は室町時代の建立で開基は徳一と伝えられ、柳津奥之院は応永年間(1394~1427 年)建立と伝えられ、古くは修験道関連施設とも伝えられる。

左下り観音堂の起源は、淳和天皇の天長七年(830)に空海が建立したと伝える註1)が、徳一による開基であろう。その後、葦名氏の庇護の下に延文三年(1358)八月芦名家臣の冨田将監祐義による修造註2)が行われ、同年に会津若松の實相寺第三世廣育和尚を招請して大石村端村大門に観音寺を建立し別当として代々領主によって修理維持されてきたが、享保八年(1728)に観音寺が維持管理に当たることとし、明治六年(1873)以降は村の所有管理となって註3)今に至っている。


註1)『左下り観音堂縁起』、『会津旧事雑考』等によれば、「天長七年庚戌 四月十四日空海建於大沼郡在(左ヵ)下観音餘見延長記也」とあるが、空海は会津地方で寺院の建立には拘わっておらず、徳一は必ず開祖空海とし、自らは初代住持を名乗っていたことからすると、左下り観音堂も徳一開基とした方がよさそうである。

註2)「(延文)三年戊戌 八月左下観音供養創建禅院是属實相寺也 大檀那富田祐義」

註3)「岩代 國大沼郡寺院明細朝 二冊之内二」福嶋縣


近年の躯体に及ぶ修理で判明しているものは、昭和五十二年(1957)の縁廻り梁の交換、昭和五十七年(1582)の一部柱の交換であるが詳細な記録はない。このように、近年になってからは、小屋組み以外の平面形態に関する大きな変更はなされていないものと推測されることから、江戸時代における大きな変更改修時期を推測してみると、安永年間(1772~1780)に回廊および脚部の大改修が行われている註4)ことが確認されている。


註4)「安永七年閏七月二日 沼木又吉」あるいは「安永八亥年三月九日 福田利八 秋山音七」等の墨書が梁・桁に記される。すなわち、この頃、脚部木軸に大きな改変が加えられたであろうことが想定される。回廊の絵様繰形も大略この時代の技術を反映しているものと云って良い。

これまでの考察結果を踏まえて、目視で確認し得る範囲において安永年間以前の当該堂宇の平面を復元すると、[左下り観音堂復元図]のようになる。

左下り観音堂復元図

三層目堂宇本体の規模は十尺六寸五分(14.089 ㎜)四方で、各柱間は中間六尺五寸、脇間五尺で、方三間堂として完結した状況の基に、周囲に六尺四寸(1.939㎜)の周廊を配置する。後背部(西壁)に敷設された仏壇および脇棚は安永年間の修理によるもので、その時点で周廊の外側にさらに欄干が付加され、堂周りを周回し得るように変更が加えられたものと推測している。二層目から三層目への階段もこの時期の用途変更によるものと考えられよう。そこで、安永年間の修理で付加されたと考えられるものをすべて排除した結果がこの復元図である。身舎内の段差も当初は無かったようである。この結果を見ると、何とも不思議な堂宇で、とても観音堂と呼ばれる性質のものとは思われない。要点は次のようになろう。

  1. 堂は北向きで、切立った崖を背後に、南側の向羽黒城を望む。
  2. 一切登り口がない。
  3. 一部分に建築構造とは関連のない貫が飛び出している。
  4. 南東の隅、いわばと連続した部分に大小の炉(火熾しの炉と採火ための炉)を具備している。
  5. 堂の南西隅には、胎内潜りと思しき洞が向羽黒城を望める位置に、南向きに口をあけている。
  6. その洞の東側には、修行者が伝い登ることができるような太い蔓が確認される。
  7. 堂の南側東西隅には、修行を積むには恰好の溝が存在する。

以上の七つの指摘は、そのままこの堂が建てられた目的に対する疑問点でもある。そこで「岩代國大沼郡寺院明細朝 二冊之内二」の記述に思いを馳せてみると、明治五年四月中上地ニナリ同六年五月村中願ノ上御払下ニ相成凡ノ造営等ハ村中ニテ維持永続ス天長七年ヨリ本年マテママ凡千四十九年ナリト云のように見えて、明治5年9月15日太政官第273号(布)の結果として「同六年五月村中願ノ上御払下ニ相成」と合致することになる。すなわち、「左下り観音堂」が修験道場として機能していたであろうことが読み採れることになる。

胎内潜り・火熾 し・採火の炉

「左下り観音堂」が修験道場であったとするならば、具体的な修験道の行堂としての会津地方におけるその存在は、俄に重要性を増してくる。「頸無観音堂」と呼ばれるようになった逸話についても、中世荘園支配における「惣堂」の位置付けを後世に伝える間接的史料として意識されなければならない。

以上の内容を要約すれば、もともと修験道の行堂として建てられた「左下り観音堂」は堂が壁で囲まれたものではなく、恐らく吹きさらしの堂で、そこは業に入る前の禊の空間であったものと想定することが可能であり、延文三年(1358)八月に冨田将監祐義による修造された堂宇は略そのままの形態を現在に伝えているものと判断され、それは、全国的に見ても稀有な存在とされよう。

古式斗栱・冬の左下り観音堂

建築様式は禅宗様式を基本とし、後世観音堂としての機能を付加するために折衷様式による補修がなさているものと判断される貴重な建築遺産である。現在は建物全体が北側に傾いており、鎖によって支持されてはいるものの、2011.03.11の東北地方太平洋沖地震に続く余震による被災で、脚柱部貫の捩じれや礎石の修復などが求められる状況である。

冬場に当該観音堂を訪れてみたが、本来のアクセス道から堂までの道のりは成程と納得である。