調査実績:福島県内に残る旧修験者活動遺構調査に関する覚書(3)

報告者:狩野勝重伝統建築文化推進協議会会員
福島県文化財保存審議委員 工博


今回の覚書は、東北地方南部地域にあって、最大の熊野詣に関する先達職を安堵されてきた棚倉町の八槻都々古別神社神官住宅に関する報告をさせて戴くとともに、これらの社 寺文化を総括的に把握して、明日への保善活用システムを考える切り口としたい。

修験道小先役八槻大善院家住宅に関する基礎調査

東北地方の縁起式内社八槻都々古別神社の神官であると共に修験道小先役としてその名を知られる八槻家大膳院は、当山派・本山派両派の熊野詣に関する纏め役として、鎌倉時代からその立場にあったことは良く知られている。記録註1)に拠れば、大膳院は近世以降修験道との関わりが深く、熊野別当と呼ばれ、周囲の修験者を統括。

八槻家神官住宅東棟書院

十五世紀結城氏支配下にあった頃には、依上保を含んだ白川家中を、最も勢力を拡大させていた時期には、いわき南地域の菊多庄に及ぶ広範囲の熊野参詣先達職を掌握するといった情況であった。白川結城氏の代替わりにあっても、その都度神人等の支配権を安堵され、少なくとも近郷一円の在地領主が神人として組織された。この神人組織は、在地領主支配を強化するための宗教社会的権威として機能したものと考えられている。


註1) 大般若経第一巻の奥付による。


筆者が、この神官住宅を訪れたのは、福島県指定文化財に準ずる建物として被災状況を確認し、維持存続のための手法に関する相談を受けたことに始まる。平成二十三年七月の事であった。当該建物は、茅葺屋根が傷んで雨漏りが著しいとのことで調査に及んだが、東北地方太平洋沖地震の被害は思いのほか激しいものであった。

八槻家東新書院被災情況図

正面式台東側の茅葺、軒先が破壊されており、柱の傾斜も10~11/500から13/500程度が認められ、全体として反時計回りに建物が捩じられた可能性がある。屋根が重いにも関わらず、全体の柱が細いことなどから、早急に精査の上、解体修理が必要である。応急処置として、背後の北面から、桁下端を支えるような頬杖を取合えず雇っておく必要があるというのが、調査当時のアドバイスであったように記憶している。

その後、平成二十四年に福島県の文化財として指定するにあたって建築史的価値判断が求められ、改めて調査に当たった結果を報告するものである。

八槻家神官住宅の概要

八槻家神官住宅の敷地概要を伝える八槻家配置図は、藤巻(旧姓八槻)恵美氏の覚書を基に作成されたものであるが、それと同時に住宅の鳥瞰パースが描かれている。

八槻家配置図

現在は屋敷に通ずる動線が南大門から少し東に移した軸が真直ぐに東新書院棟の式台に通じているが、取り付き軸が全体に東に寄っている不自然さは、いささか気になる処である。

一方、西の通用門からは東棟の中の口に一直線に通じており、こちらの方が自然である。配置図では判り難いが、現存する部分は畳の敷かれている範囲で、白く抜かれている部分に関しては、既に解体されてしまっている。 その部分を鳥瞰パースで確認すると、西端の 炊事用の土間からお次の間、茶の間が南側に八槻家配置図並び、炉の間、一室挟んで東に奥の間、女部屋、奥と配置され、南東の一角に中の口、大座敷、小座敷の他一室が具備された四つ間取りの接客空間が完備されて、さらにそれを支える庭園が二か所に用意されていたことが判る。

八槻家神官住宅鳥瞰図

謂わば、八槻家住宅は、西側主屋棟と西側書院棟の二つの建物を接続させる形式で成り 立っており、東側書院棟には御堂が取り付けられていた。当初の指定対象は東側書院棟であり、それを遺すための検討を求められていた訳であるが、筆者の調査で、その対象は大きく変化することになった。 現在のところ、西側主屋棟と東新書院棟の造営年代は明確にされておらず、家伝では「宝暦二年から四年の造営」註2)ということになっているが、その根拠は不明である。


註2) 2002 井上國雄・畠山真一「八槻都々古別神社出土の中世瓦とその背景」がその発端であろうか。「大般若経 奥書」から宝暦二年1752から四年1754の再建は自明であるとしている。ただし、正徳元年1711から宝暦二年1752の間に再び焼失したとするが、焼失に関する記録は見つかっていない。


「八槻家系図」(八槻浩子氏蔵)に拠れば「主殿亮・主殿坊 俊良・・・正徳元年本社類焼始自建立享保元年成就遷宮」とあり、正徳元年から享保元年1716までの造営工事があったことが知られる。「近津(千勝)明神別当大膳院由緒書」の「追記」にある「殿舎成就、前々歳從申歳至當卯歳」という記録は、申の歳は宝永元年 1704 で卯の歳は正徳元年 1711 であることから、7年間に渡る造営工事があったことになり、造営工事成就直後の宝永八年 1711(正徳元年)二月十九日には近くの農家からの貰い火事により再び焼失したことになる。その後、再び造営工事に着手註3)している。


註3) 「 一 ・・・矢つき(八槻)ニて馬ヲ次(継)其内チカツ(千勝)の御堂見申候、町外レニ有之候、最中普請と相見得候、・・・」(「正徳五年常陸御用日記」『大宮町史 史料集』昭和五十五年 P59~60 )


享保七年 1722 に幸良が八槻家を相続。「大般若経 奥書」は「父俊良は四才で大膳院を継ぐが旧宅は荒廃し、そのうえ本社堂塔は火災によって一宇も残らず焼失してしまった。幸良の代になり本社・拝殿等を宝暦二年1752から四年1754にかけて造営し、・・・」(2002 井上國雄・畠山真一「八槻都々古別神社出土の中世瓦とその背景」)と記すが、少なくとも、宝暦五年には本殿の造営工事は続いていたことになるので、内容的には矛盾が生じてくる。また、「本社堂塔」あるいは「本社・拝殿」は神社境内殿社を意味しているもので、必ずしも旧宅の造営を意味してはいない。

東側新書院棟の天井絵「龍玉」について

西側主屋棟と東側新書院棟の造営年代については、それを明確に示す史料が見つからない以上、推測の域を出ないことになる。しかし、八槻都々古別神社の造営経過を通じて共通するものに天井絵が存在する。その内、龍玉の絵に注目してみたいと思う。

東側新書院棟式台土間天井絵龍玉・同式台内側天井絵龍玉・都々古別神社山門天井絵龍玉

筆者は、これらの天井絵龍玉を何れも棚倉藩で活動してきた狩野派系統の絵師が描いたものと推測しているが、繧繝や龍の描法として最も早い時期の天井絵が新書院式台内部に描かれた色鮮やかな龍玉で、他の二点の龍玉とは異質の作品である。また、神社神門の天井絵は水墨画的表現を用いた宝暦五年1755以降註4)の製作であろうか、他にも同じ描法と思われる鳳凰、鶴に乗る仙人、恋に乗る仙人などの天井絵が描かれる。なお、馬場都々古別神社の神門にも同時代と思われる龍玉が描かれている。


註4) 前掲「正徳五年常陸御用日記」では宝暦五年1755に造営工事が続いていたことが知られる が、本殿に関する記述と分析されるので、神門の建築はそれより遅れたものと考えられる。絵様繰形の性質が全く異なることから、同一大工ではない。


この二点の天井絵に比べると東側新書院棟式台土間上部天井絵の龍玉は神社山門の天井絵を模したものと考えられるが、表現としては最も稚拙であると言わざるを得ない。とても式台内側天井絵と土間上部天井絵が同時期に描かれたものとは想定し難い処である。

天井絵は六種類確認され、その描法は、一つ一つが丁寧に描かれている上にダイナミックな構図は相応の力量を感じさせる。すべての絵は、その描法から同一人の手になるものと推測できるが、製作者の銘や落款は確認されない。ただし、馬場都々古別神社随身門に描かれた天井絵は、その製作者特定に有力な手掛かりを与えるものと思われるので、美術担当委員と共同で比較調査を実施することが奨められる。

推測にすぎないが、慶応年間造営の馬場都々古別神社随身門の天井絵を製作した榮松翁(詳細不明)の系統の絵師の関与を想定する必要があろう。是非とも、美術史専門の研究者に鑑定を願いたい。

馬場都々古別神社随身門の天井絵

八槻家神官住宅の維持・変遷に関する考察

西側主屋棟の基本寸法体系、一間 1910mm、柱芯々制。部屋の造作は、東側新書院棟の武家接客用空間の造作とは大きく異なって、素朴さと剛毅さが入り混じった空間を演出している。前掲の八槻家神官住宅の原図となった線画が明治十八年1875に描かれているが、少なくとも、江戸時代末期の情況を大きく変化させるものではなく、昭和十年頃までは西側主屋棟の大座敷以西は存在していた訳で、主屋棟は主屋棟で一つの機能を完結させていたものと想定される。その続き間である座敷・土間空間の中にこそ修験者の行者堂(行に入る前の溜り)たる真の修験道的空間を擁して、田の字型平面の部分には客殿的使用の可能性が見て取れる。その構成は、決して荒廃してしまった旧宅というものではない。精査が望まれる。

一方、東側新書院棟も基本寸法体系、一間 1910mm、柱芯々制。式台を持ち、玄関の間、中の間、上段の間を一列とした武士住宅広間の変形で、ある種の溜り空間としての機能を意識してか、玄関の間、中の間は上段の間よりも奥行きが広めに取られている。また、式台脇から上段の間前に続く南側鞘の間は武家屋敷の造りそのままである。上段の間前面の鞘の間から脇障子を巻いて砂雪隠(現在は無い)に繋がる空間は興味深いものがある。

さらに、中の間北側の小間(柳の間)は後背部に存在した御堂の前室的役割と書院広間に対する給仕の間としての機能が想定され、上段北側の主人書斎間(竹の間)は、上段と同一床レベルとされ、なお、格の高い空間であったと推測される。検見役人接待用の上段の間として整備されたものであろう。新書院には特徴的な欄間が付けられている。

新書院棟欄間・神門の蟇股・大虹梁絵様繰形

その形状を神門の波形絵様繰形と比較してみると、何れも十八世紀後半に活躍した武志伊八郎信由註5)一派の影響と思われる波をモチーフにした彫り物が見られるが、明らかに神門の蟇股・大虹梁の絵様繰形の方が優れている。この神門と本殿を比べてみると、本殿の絵様繰形は波をモチーフにはしていない。また、襖絵を見ると、襖絵下部に波をモチーフにした狩野派の作風が用いられているので、神門の完成後に新書院棟造営が企図されたものと推測される。


註5)武志伊八郎信由(本名武石伊八)1724・文政七年生まれ、73歳で没。安房で活躍した彫刻師。


このように見てくると、宝暦五年1755頃に本殿・拝殿の造営が行われ、続いて神門の造営が行われ、それらが成就した後に新書院棟の造営が行われたと考えるのが妥当である。もし、この推論が認められるならば、社殿造営が行われた時点で、八槻家の西側主屋棟は既に修験道小先役宅としての体裁を整えていた訳であるから、宝暦二年1752から四年1754にかけて造営されたと伝えられる殿舎は西側主屋棟ということになるのかもしれない。

ともかくも、屋敷全体は、北・東と南東を濠で囲まれ、門西には石垣が組まれた中世の環濠屋敷的面影を伝え、三つの内庭と一つの表庭から構成される。建築平面としては西側主屋棟と東側新書院棟の二つに分類され、更に旧主屋棟は大きく二つに分類される。西北部の土間を中心とした空間は十五畳程度の溜まり座敷とその南面の内庭を中心とした空間を構成する褻的生活支援空間、中央の内玄関と四つ間取り座敷は観賞用池庭を中心とした接客空間(復興なった殿舎の基本構成)、新書院棟は近世後期の一文字型客殿的接客空間で、更に南北に長い内庭を隔てた御堂という四つの構成に整理されるものと考えられる。このうち、西北部の土間を中心とした空間(もっとも腐朽が激しかった部分と考えられ、江戸時代初期のものと推測されるが・・・)は、昭和十年頃に解体されたという。それぞれの建設時代は明確にはされないが、八槻家住宅そのものは三つの部分から構成され、建設年代もそれぞれの部分に対応したものであった可能性が高い。なお、護摩堂は明治時代になって、神仏分離の過程で使用されなくなったものと推測される。

中央四つ間取り座敷中の口西側の縁天井には「弁才天大明神 稲荷大明神」、「八槻村大男根大明神」のような墨書が見られ、道教的世界との連携も予想される。

八槻家神官住宅および土蔵群の目視調査より・・・

八槻家住宅に関しては、書院棟に関する東北地方太平洋沖の被災情況調査、その後の土蔵群に係る危険度調査の際に、緊急に神社領域全体の保全を図る必要があるとの指摘をしておいたが、いまだにその対応がなされていない情況にある。特に、特に敷地北側に配置された土蔵群は軸組の保存状態が良好である状態で遺されており、丁寧な補修を加えれば更なる使用に耐えられるものと判断している。しかし、崩れたり罅が入ったりしている部分は、雨風に晒されれば急速にその強度が失われる危険性があり、やはり早急な修理を必要としている。

また、土蔵群の中では最も新しいものではあるが、『昭和八年四月二十一日本殿磚ママ座祭執行札』に記載のある「工事設計 二本松孝蔵」は、東京在住の国粋建築研究所所長、二本松孝蔵であったと推定され、南相馬市小高区耳谷みみがいの旧天野定八邸註6)の設計者でもある。天野定八は昭和十六年から同二十年まで福浦村の村長を務めたイタリア音楽研究家・作曲家天野秀信氏の父親。


註6)福島県近代化遺産調査報告書に掲載予定であったが、日常的な使用に給しているとのことで同意は得られず、掲載には及んでいないが、重要な近代文化の発展に寄与している。


二本松孝蔵註7)は、護国神社としては一般的な様式ではあるものの、昭和15年4月に遷宮が行われた宇都宮招魂社の社殿の設計者でもあり、構造家の内藤多忠註8)と共に大洗磯前神社の明神型鉄筋コンクリート造鳥居として竣工させたことでも知られる人物である。


註7)日本建築学会の研究発表として「歴史・工事・修繕、柿葺の研究(抄)二本松孝蔵 建築雑誌 1938.3.368」の記録が残る。

註8)大阪通天閣や東京タワーの設計者として知られる。


以上のように、八槻家神官住宅および土蔵群は、単なる修験道関係だけではなく、近代の建築文化における基本的土壌の形成に多大なる寄与をしていることが認識される。馬場都々古別神社、八槻都々古別神社とも、丹羽光重の棚倉城建設と強い繋がりを有し、今後の棚倉町における文化的景観形成に欠かせないものと考えられることより、町内の文化的要素を加えて、早急な総合調査が行われることを奨めるところである。

また、最後に指定寄付金制度の積極的活用を検討されるよう、強く奨めるものでもある。